更新しないと見せかけてこっそり更新

 久々の更新ですよ。
その後いろいろありました。
「更新していない」という状態から「相当いろいろあったんだな」と思っていただけると幸いです。

 ええと、青森に3日ほど帰っていました。
うちのお嫁ちゃんと【事実上の】新婚旅行ということになるわけです。
実際は、新しく我が家のお墓が完成したので、こないだ亡くなった祖父の納骨、というのが本題だったんですけど、両親や親戚が気を使ってくれて【めちゃめちゃ夕陽が綺麗なホテル】に泊まらせてくれました。

Asamusshi_2

んで、このホテルは展望風呂というのがあって、まぁ「屋根のある露天風呂」みたいな感じなんですけど、意外にこういう風呂って怖くないですか?
 僕は夜中にこのお風呂に入っていて「鳥人間が来たらどうしよう」とか、「目の前の海から首長竜が出てきたらどうしよう」とか、なんかそんな事を考えちゃってとても怖かったですうんこ。
Tori


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 ここでいきなり読書メモ。
佐藤優の「国家論」読了。
僕が思っていることは大体書かれちゃっているので、少なくとも僕には出版のチャンスなしということ。
あと、あんまり頭が良すぎるとムネオと一緒に逮捕されちゃったりするんだなぁ、ということ。

この本の前半は宇野弘蔵のマルクス解釈を元に国家と社会と経済を解説するのだけれど、考えてみれば、アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートだってそっち系だし、僕の好きなジジェクだって自称マルクス主義者なわけで、<帝国>やらマルチチュードがなんだかちょっと好きな僕が「あ、良い本だな」と思うのも当然かもしれない。
佐藤氏は自称「右」だけれど、「左」をしっかり押さえている「右」なので読んでいてとても気持ちが良い。この人といい鈴木邦夫といいそういう知的な人ってステキだなと思う今日この頃だ。

ところでフーコーの代表作が文庫化されているのを発見したので、取り掛かることにした。字が小さくてしんどそうだけど頑張る事にする。

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 北京オリンピックの聖火リレーで大騒ぎだったのは、ちょっと前の事になっちゃうけど、僕がとても気になったのは「政治とスポーツとを一緒にしてくれるな」という言説。
僕はこれに関しては「べつによくね?」と思うんだ。
 基本的に、オリンピックをはじめとした【スポーツのイベント】というのは経済の道具になっているだろう。そういうイベントが、既存の規模を純粋なボランティアで運営できないのだから無理もないだろう。広告費とか協賛金でやるよね。
 一方で、政治そのものも経済の道具だ。
韓国の新しい大統領が「大企業のCEO出身だから」という理由で期待されるのもそういうことだ。
ウォーラステインの「世界システム論」的な感じ(最近では中学生の教科書に載ってるそうじゃないの)。

 そういった塩梅だとしたら、ディレクトリ構成としては

経済 +政治
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+スポーツ

こういう感じなんじゃないかな。
別に一緒でもいいんじゃない?
オリンピックやワールドカップで「ニッポン、ニッポン」と叫ぶ姿勢は、近代の国民国家を維持するのに欠かせない要素だと思うよ。基本的に政治とスポーツと経済は不可分だと思うよ。そして経済とコミュニケーションも不可分。ここが面白い。


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 ああー、photoshopのCS3が欲しいなー。フラッシュも欲しいなー。
高いなー。

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 「対象a」に子供がテキトーに歌っているウソ歌も追加したい。強引かな?

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死者というシニフィエ


 じっちゃんが死んでしまって、まぁいろいろ仕事とかも忙しかったのであるけれども、じっちゃんのお通夜や葬儀を通して個人的に面白い事を発見したので書くのだ。
全くうちのじっちゃんは毎度僕に細々と気付かせてくれる。


 お通夜、僕は夜通し線香の番をしていた。
やや小っ恥ずかしいのだけれど、こう、じっちゃんの好きだったウイスキーを飲みながらじっちゃんと「語り合って」いようとしていたのだ。
二つのグラスにウイスキーを注いで、煙草に火をつけて語りかける。

ここで面白い事に気付いた。
目の前にじっちゃんの遺体をいれた棺桶が横たわっていて、その向こうにでっかい写真が飾ってあったのだけれど、僕はどういうわけか、どうしても写真のほうに語りかけてしまうのだ。
「あ、目の前で横たわるじっちゃんに語りかければいいじゃん」と気付き、改めて語りかけるのだけれど、新しい線香を立てるなど、リセットとなる行為をしてしまうと、また写真に向かって語りかけてしまうのだ。
これって面白くね?

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 僕たちは生きている人間に対しても、「その人」そのものに対して語りかけているのではなく、その人の「イメージ」に向かって話しかけているのだという事なのではないか? もっと言い過ぎるなら、僕たちは「その人」というシニフィアンにむかって話し掛けているのであって、シニフィエに向かってではないのだ。

 そして「その人」が死んでしまって僕たちが悲しむのは、その事実に気が付いてしまうからであり、葬儀などの儀式をして始めて一段落つける(「その人の死」を受け入れる、といってもいいかも)事が出来るのは、『実はシニフィエを重視していなかった/認識していなかった/無かった』という、空白の「シニフィエがあるべきポジション」に対して、「冥界に旅立っていく魂」という(仮の)シニフィエを与える作業をすることが出来るからではないのか。
 死なれて初めてシニフィエを(仮定して)認識するという運動が、人間の特徴の一つなのだろうな、と坊主の読経を眺めながら思ったのであった。

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弔辞


 祖父は立派な労働者でありました。
最期まで自立し、誰にも世話をかけないでいようという頑固な決意のある人でした。
娘が一緒に住もうという言葉をかけても、頑なにそれを拒み、孤独を愛する人らしく、最期まで孤独を全うし、死後恐らく三日目の今日、テレビを見ながら亡くなっているのを発見されました。

 祖父は立派な社会主義者でありました。
浅沼稲次郎を敬愛し、僕の生きる現代を憂いていました。
最期まで選挙権を行使し、保守主義の復活を嘆いていました。
戦時中は内地で本土決戦に向けて、高射砲の射手として死に臨む覚悟でありつつ、とうとうあまり戦わずに終戦を迎え、それ故に「外地に行った者の苦労はどれほどのものであったか」と折に触れて言葉の端に出しておりました。

僕は結婚の報告をまともに出来ぬまま、そんな祖父を送る事になってしまいました。
後悔ばかり残ってしまいます。
孤独を愛する人に「気遣い」としてあまり構わないでいたことを大変後悔しています。
残されたカセットテープにアルゼンチンタンゴが入っていました。
そういえば祖母とダンスホールでよく踊っていたそうです。
テープを再生すると、そのよく踊ったと祖父が語っていた曲の頭にあわせてありました。
 祖父と祖母が、信仰の問題で別れざるを得なかったいきさつを僕は知っています。祖父を良く思っていない伯父や伯母よりも良く知っています。祖父が祖母を想い続けていたことも良く知っています。
信仰とイデオロギーに翻弄され、その挙句身内から悪し様に言われる祖父の一生を思うと僕は悲しくてなりません。

僕と祖父が最後に会った時、祖父は僕の顔を見つめて、僕の敬愛する亡き大叔父の顔に似てきたと、さっぱりとした笑顔で言いました。
今思うと、何かを卒業した人間に言葉を向けるようなそんな顔でした。
僕が何かを卒業したと、そう判断してくれたのだろうと思います。

それから一ヶ月位で、今日という日を迎えてしまいました。
故郷の青森と、そこで娶ったかつての妻を想う人らしく、よく雪の降る週に逝きました。
これを読んでいらっしゃる方には申し訳ないのですが、孤独を愛した祖父の葬儀は、恐らくごく少数によるものとなります。
弔辞などを読んだりすることはないでしょうから、僕の思いを「必ず届く宛先」に向けて書かせていただく事にします。

無心論者の葬儀に戒名の手配をする事に疑問を覚えつつ。

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幸福とは常に他者のものである


 幸福とは常に他者のものであるということに気が付いた。
現在の僕は、間違いなくとても幸福な状態である。
が、それまでに多くを重ねてきた末にこの状態なので、「うおー、幸福だーっ!」と叫びたくなるようなものではない。
自分を客観視(他人であると仮定して見て)して初めて「自分はこれまでの中で最も幸福な状態にいる」と判るのである。

多くの人間は「幸福」という言葉とその意味(それは大抵架空の物語を通じてなのだが)を知っているが為に、それがあたかも自分の手で掴めるものであると思い込んでいる。
しかし、そうではないのだ。
「幸福」の存在を認識するのは、他人が「幸福と呼ばれる状態である」ところを目撃した場合か、もしくは「幸福」とされる状態から転落した時であろう。
つまり「私にはそれがない」という(相対的に)「『幸福』が欠如している」状態を認識したときなのだ。
勿論その時、その他人もそれほど「うおー、幸福だーっ!」と叫びたい状態でもあるまい。

幸福とは他者のものである。
その位置は常に空白で、その名と概念のみが存在しているのだ。

前回の記事で僕の結婚についてチラっと書いたら、そのコメント欄にて、宮本さんに「やっと観念したか」と書かれたので、少し考えてしまった。
僕はその答えとして、次のように書いた。

==
 最も大きな目標を「達成してしまう」という、何というか、勿体無さというものを感じたよ。
その意味で「観念した」というのは正しい表現だろうと思う。
==

この「勿体無さ」を感じる要因は、そのツレと結婚をするという目標が自分を駆り立ててきた原動力であったわけで、達成してしまうとその原動力を失うのではないか、という不安であっただろうとおもう。
僕が「結婚」に踏み切ったのは、次なる原動力のアテがあったからに他ならない。
もしそのアテがなかったら、その時点で失速していたかもしれない。

「幸福」というシニフィアンもそういった機能を持っている。
実体が無いからこそ、人々を駆り立て続けるのだ。

と、言うような事を会社の便所にかけてあった日めくりカレンダーの「1日目」

『真の幸福は最大の努力によってしか掴む事は出来ない』

という大変胡散臭い言葉をみて思うのである。
と同時に「こういう胡散臭い言葉を見て本気にしちゃうヤツっているんだろうなぁ」と少々心配になってくるのである。

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油断は禁物。


 昨日はツレの誕生日でもあって、覚えやすいなぁ、という理由で役所にアレ届けを提出した。
苦節…、ええと何年だっけ。忘れたけどいろいろ紆余曲折を経ての事なので感慨もあるのだが、それは置いておく。
僕は「人妻」ならぬ「人夫」となったのだ。なんというかとても低賃金で重労働を強いられそうな響きである。それだけで立派にプロレタリアートと呼べる。ヒエラルキーとしてはきっと下のほうであることは想像に難くない。いわば蟹工船である。

さて実家では、嫁の誕生日だからという理由で、お姑さん(つまり僕の母)が特大ハンバーグを作ってくれていた。そしてツレの名前の入った誕生日ケーキ。
ケーキにはチョコで、ハンバーグにはケチャップで「ツレちゃんお誕生日云々」とわざわざ書いてある。
「お姑さんが嫁の誕生日にハンバーグを作ってくれる」というシチュエーションは一般的に、何かどこか微妙に変なような気がするのだけど、なんだか面白いのでよしとする。


 というか、僕のおのろけは置いておいて、言いたいのは「アレ届け」はあくまで戸籍関係の書類であるという点である。
 僕と同じような、離別型母子家庭出身で、しかも「生物学上の父」に起因する辛酸を舐めさせられる事の多かった人々で、しかもこれからアレ届けを提出する人々伝えておきたいのである。

「生物学上の父」の名前も記入しなければならないぞ。

これは、自分の人生から排除したい名前を思い出させる(というか、身内がお祝いムード一色である状態で母にその名を聞かなければならない状態)というとても屈辱的な一幕を呼ぶ場合があるので、注意が必要だ。
実際「生物学上の父」の名を書類に書く時、とても屈辱的であった。
区役所のおじさんの「生物学上の父」の名を聞く際の申し訳なさそうな表情がちょっと忘れられなさそうだ。

同じような境遇の人は要注意である。


 最近、育毛関係の会社「リーブ21」の宣伝に出てくる社長と思しき人物が気になって仕方が無い。
なんだかとても弱そう(特に首周りが)なのである。
僕は、ここ20年は殴り合いの喧嘩などしたことがない(つまり小学生以来ということだ)し、今やっても恐らく弱いだろうけれど、この社長(と思しき人物)には1ラウンドでKOを奪えそうなのだ。
 この人物をどうやって倒すか、それを考えるのが、最近のマイブームである。

僕だったら、次のような運びで倒すだろう。

1、まずローキック数発でけん制しつつ、
2、社長(と思しき人物)の重心が前に移ったところで延髄切り
3、倒れたところを上四方固めの要領でマウンティングしつつ
4、脳天に膝連打。
5、TKO

逆に、僕が社長(と思しき人物)に負けるとすると、彼の重心は見たところ上のほうにあるので、恐らくキレ味の良いタックルを繰り出してくると思うのだ。
僕はそれを警戒しなければならない。
彼のタックルを食らって倒れたら、それこそ「上四方で膝」というパターンに行かれてしまうだろう。印象が「弱そう」であってもやはり油断は禁物だ。みんなも気をつけよう!

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